黒田官兵衛と山本勘助ではどちらが勝れた軍師だったか

大河ドラマ「黒田官兵衛」がまもなく終わる。
戦国時代のヒーロー達の中ではマイナーな方なので、初めて名を聞いたという人もいるかも知れない。

ドラマの中でも描かれていたように、官兵衛の知略が無かったなら羽柴秀吉の中国攻め以後の歴史は変わっていたかもしれない。
それぐらい官兵衛の軍師としての働きは勝れたものだったらしい。

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このような軍師と称される官兵衛のような存在は他にもいる。

武田信玄に仕えた山本勘助である。
ただ、軍師と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのことで、山本勘助の専門分野は「城作り」だったという。

勘助が改築や構築したされる城の代表作が、伊那の高遠城、佐久の小諸城、そして勘助最期の戦いとなった川中島の戦いで信玄が上杉謙信と対峙した海津城である。

松代城海津城は後に「松代城」と改められ、真田家の居城として明治維新まで使用された。
その間、たびたびの火災や地震による被害にあい、本丸、二の丸、三の丸を失い、1873年の火災により花の丸御殿も焼失した。
2004年に太鼓門や堀などが復元され、2006年に「日本100名城」に選定された。
引用 ⇒ 松代城跡|真田宝物館 

一方、黒田官兵衛も城を作っている。大分県中津市の中津城である。
この城は秀吉による九州平定後黒田家に豊前国6郡が与えられ居城として築城したもの。
黒田官兵衛・長政父子は関ヶ原の戦いまでおよそ12年間中津城を居城とするが、その後、長政が福岡へ加増移封され、福岡黒田藩の歴史が始まることになる。

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場する、速水もこみち演ずる母里太兵衛が長い槍を持ち大きな盃で酒をあおるシーンがある。これが福岡に伝わる民謡「黒田節」を表現している。

黒田節

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